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神戸簡易裁判所 平成7年(ハ)121号 判決

主文

一  被告は原告に対し、金八四〇、〇〇〇円及びこれに対する平成七年一月一八日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  反訴被告(原告)は反訴原告(被告)に対し、金二四三、七七〇円並びに内金二三九、八九三円に対する平成七年三月三一日から及び内金三、八七七円に対する平成七年六月三日から各支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

三  訴訟費用は、これを三分し、その二を被告の負担とし、その一を原告の負担とする。

四  この判決は仮に執行することができる。

理由

第一  請求

一  本訴

主文第一項と同旨。

二  反訴

主文第二項と同旨。

第二  事案の概要

一  本訴

本件は、ビルのテナントの賃貸借の終了原因が地震によるビル全壊による賃貸借の目的物件の滅失によるものか否か、また、賃貸借契約終了が右の事由に基づくものである場合に、賃貸人がいわゆる敷引をすることの可否が争われた事案である。

1  争いのない事実

原告と被告は、昭和五八年五月九日、被告所有の神戸市中央区北長狭通二丁目五番地の一所在の鉄筋コンクリート造地下一階地上七階建の阿部ビル(以下、「本件ビル」という。)のうち二階二〇七号三六・五一平方メートル(以下、「本件賃貸物件」という。)について、スナック営業のために、原告を賃借人として、賃貸借契約(以下、「本件賃貸借契約」という。)を締結し、その際、被告に対し、金三〇〇万円を敷金として差し入れていたところ、平成七年一月一七日発生の兵庫県南部地震により、本件ビルは全壊し、このため本件賃貸物件は滅失した。その後、被告は右敷金を原告に返還したが、本件賃貸借契約には、その契約書の一一条に、敷金返還に際し賃貸人において敷金から二八パーセントに相当する金員を控除した残額を返還し賃貸人は控除した金員の返還を免れる旨のいわゆる敷引の条項があり(以下、「本件敷引条項」という。)、被告は、これに基づき金三〇〇万円の二八パーセントに相当する金八四〇、〇〇〇円を敷引した。

2  争点

(一) 賃貸借契約の終了事由

本件賃貸借は地震による本件ビル全壊による本件賃貸物件滅失のために終了したものであるか否か。

(二) 敷引の可否

本件賃貸借契約が地震による本件ビル全壊による本件賃貸物件滅失のために終了したものである場合、賃貸人が敷金を返還する際に敷引をすることの可否。

(三) 相殺

被告は、敷引が許されない場合は、被告が本件賃貸物件の維持・管理に関して支出した賃借人が負担すべき費用について原告に対して求償債権を有し、その合計金額八八九、四七七円を自動債権として、原告の本訴請求債権につきその対当額での相殺を主張している。

二  反訴

本件は賃借人である反訴被告に対し、賃貸人である反訴原告が、本件賃貸借契約の約定に基づき、延滞賃料の遅延損害金を請求したものである。

1  争いのない事実

本件賃貸借契約には賃借人が賃料の支払いを遅延したときは完済にいたるまで日歩四銭の割合による損害金を附加して支払わなければならない旨が約定されている。反訴原告の主張する反訴被告が反訴原告に支払うべき賃料の平成二年四月一日から平成七年二月七日までの延滞状況及び遅延損害金の額は別紙のとおり合計金二四三、七七〇円で、当初反訴原告は平成七年三月三〇日に反訴被告に送達された反訴状において、その一部である金二三九、八九三円を請求していたが、平成七年六月二日に反訴被告に送達された申立書において請求の拡張を行つた。

2  争点

被告は延滞損害金の額について争うほか、反訴原告から反訴被告に対し、免除があつたと主張している。

第三  争点に対する判断

一  本訴について

1  賃貸借契約の終了事由

原告は、本件賃貸借は地震による本件ビル全壊により本件賃貸物件の滅失のために終了したものであると主張するが、被告はこれを否認し、本件においては、平成二年二月一三日ころ、原告と被告との間で、合計で金九〇万円の延滞賃料があつたこと、これを平成二年四月二八日までに支払わなければ、本件賃貸借契約を解約する旨を右二月一三日ころ合意していたこと、更に、原告が右四月二八日までに九〇万円を完済しなかつたことは争いがないのであつて、本件賃貸借契約は、平成二年四月二八日の経過により解約されたものであると反論している。

本件においては、被告は、家賃相当額を継続して原告から徴収していたことが認定できる。この点について、本件ビルの管理を被告から任されていた証人の阿部正雄は、原告に対して再三にわたつて口頭で立退きを要求しており、右家賃相当額の徴収は、これを不法占拠の損害金として受け取つていたものであると証言している。しかしながら、これは、本件賃貸借契約を解除したと被告の主張する平成二年四月二八日以前と同様の形態で徴収を行つていたことを示す家賃領収通(甲第四・五・六号証)に相反するもので、また、賃貸借契約が終了したと考えている賃貸人側が終了後五年近くにもなる長期間にわたつて右のような対応をとり続けることは不自然なものというべきであつて、この点の証人阿部正雄の証言は採用することができない。むしろ、被告が原告を賃借人と考えていたからこそこれまで同様の形態で家賃相当額を徴収していたと考えるのが自然で、本件賃貸借契約は、地震で本件ビルが全壊するまで継続していたと認定すべきである。したがつて、本件賃貸借契約は、原告が主張するように本件ビル全壊による本件賃貸物件の滅失のために終了したものと認めることができる。

2  敷引の可否

本件賃貸借契約が本件ビル全壊による本件賃貸物件の滅失のために終了したものであるとすると、このような場合にも、敷引をなすことが可能であることを被告において主張・立証することを要すると考えられるが、被告は本件敷引条項を敷引をなす根拠として主張する。これには、賃借人が「自己の都合で」本件賃貸借契約を解約した場合に賃貸人において敷金から二八パーセントに相当する金員を控除した残額を返還し、賃貸人は控除した金員の返還を免れる旨が定められている。この点について、原告は、地震による本件賃貸物件の滅失は、賃借人の「自己の都合」でないことは明らかで、本件賃貸借契約の敷引条項によつては敷引はできないことは明白であると反論する。しかしながら、本件においては、原告・被告の間で「自己の都合」の内容について契約当時においては明確にされていなかつたと考えられ、本件賃貸借契約の契約書には、敷引に関し、他に、賃貸人が契約を解除するときは敷金を全額返還するものとされており(第四条)、本件敷引条項における賃借人の「自己の都合」とは、これと対比して、漠然と賃貸人側の事情で契約を解除される場合以外の場合を広く指しているものと考えるべきであつて、契約当事者間における敷引についての実質的な根拠を離れて、地震による本件賃貸物件の滅失は賃借人の「自己の都合」でないという理由から本件の場合には敷引は許されないとすることはできない。

また、原告は、そもそも敷引は、退去の際の建物の内装等の補修費用や退去後の新規賃借人の募集やいわゆる空室損料を填補する目的でなされるもので、地震による本件賃貸物件の滅失の場合には、敷引の実質的根拠もないと反論している。確かにこのような目的で敷引条項が設けられることも多いであろうが、敷引の目的が必ず右のようなものであるわけではなく、個々の契約にそくして判断されるべき事柄である。右のような趣旨でなされる敷引においては、退去の際の建物の内装等の補修費用が大きな割合を占めると考えられるが、本件賃貸物件は店舗用であつて、一般の居住用建物の賃貸借と異なり、賃借人が自己の気に入るように造作を施して入居し、退去の際は賃借人が原状回復をして明け渡すものと認められ、退去の際の建物の内装等の補修費用は問題とならないのであつて、むしろ、本件の場合には、原告が主張するような一般的な場合とは異なつた根拠から設けられていたことが伺われる。

そこで、敷引の実質的な根拠についての被告の主張であるが、本件賃貸物件が存する本件ビル二階はいわゆる雑居テナントビルの中で飲食店・スナック等が複数入居する部分であるという通常の居住用の建物賃貸借とは異なつた性格から、当該賃貸借契約の期間中にその維持・管理に関して必要な、不定期に生じるため賃料に組み入れられない諸費用が生じるのであつて、本件における敷引はこれに充当するために存するのであるというものである。ここから、被告は、本件における敷引の金額は、その性質上、賃貸借契約締結時において当事者間において当然に控除されたものと考えられているもので、仮に本件において地震による目的建物の滅失が賃貸借終了の原因であつたとしても敷金返還の際に敷引をすることは当然であると主張する。確かに、本件賃貸部分については、飲食店・スナック等が複数入居する部分であるという通常の居住用の建物賃貸借とは異なつた性格から、当該賃貸借契約の期間中にその維持・管理に関して必要な諸費用、具体的には廊下の使用損傷による絨毯の張替え、天井、壁の塗装等々に関する費用が生じていたこと、その額も年間平均すれば金一〇〇万円乃至二〇〇万円程度であつたことが認定できる。右のような費用について、賃借人に家賃以外の形で負担を求めること自体については、本件家賃の額から、一概に不合理・不自然とは言えない。しかしながら、これらの費用については、不定期とはいえ、ビルの賃貸借に関してはその発生が、ある程度予想される性質のものであつて、家賃・管理費等の形で賃借人に負担を求めることが通常であると考えられること、また、賃貸期間が長期間になればなるほど額が大きくなるはずであり、また、逆にいえば、期間を決めて敷引分を償却して新たに差し入れることが約されるべきであろうが、本件賃貸借契約については、そのようなことはなされていないなど、原告が指摘するような問題点がある。また、本件賃貸借契約の契約書には賃料には共益費が含まれている旨の条項があることも考えると、本件敷引条項が、右の費用を賃借人に負担させる趣旨であると考えるのは不自然で、被告の主張するものを敷金の実質的な根拠と認定することはできない。

右のように、本件賃貸借契約における敷引の根拠は、原告の主張するような一般的なものとは異なることが伺えるものの、被告が主張するように、当該賃貸借契約の期間中にその維持・管理に関して必要な、不定期に生じるため賃料に組み入れられない諸費用に充当するためのものとは認定できない。結局、本件敷引条項によつて本件におけるような地震による賃貸物件滅失という両当事者の責めに帰すことのできない賃貸借契約終了の場合にも敷引が可能であることについて被告による立証がなく、本件においては敷引は認められないと考える。

3  相殺について

被告が反対債権としているのは、敷引の可否に関して、被告が敷引によつて生じる収入で賄われるとして主張していた費用乃至これと同種のものであつて、その発生については認定できる。しかし、先に述べたように、これらは、ビルの賃貸借に関して、その発生がある程度予想される性質のもので、賃貸借契約の期間中に家賃等の形で賃借人に負担させているのが通常であつて、これらを賃貸借終了後に賃借人に求償するには、それを可能とする特別な事情のあることが必要と考えられる。本件においてはそのような事情についての立証はなされておらず、したがつて、被告の相殺の主張は認められない。

4  よつて、原告からの敷金返還請求に対して被告の主張する抗弁はいずれも成立せず、原告の請求は理由があるので、原告の請求を認容することとする。

二  反訴について

1  遅延損害金の額

反訴被告は、遅延損害金の額を争つているものの、反訴原告に平成二年二月一三日に書面を差し入れて以後、平成三年六月末までに右九〇万円の支払を終えたとのみ主張し、具体的な金額を主張しないので、平成三年六月までは反訴原告主張の別紙のとおり延滞していたと認定する。反訴被告はそれ以降も、一ケ月遅れで賃料を支払つていたことは認めており、平成三年一二月分から平成四年一一月分まで及び平成五年一二月分から平成六年一一月分までは、いずれもその期間の賃料金領収通があり、更に、平成六年一二月分及び平成七年一月分については、平成七年二月七日に反訴原告において敷金を返還する際にこれらを控除して回収していることが認められる。結局、反訴被告が反訴原告に支払うべき賃料の平成二年四月一日から平成七年二月七日までの延滞状況及びその遅延損害金の額は反訴原告の主張の別紙のとおり認定できる。

2  免除の意思表示について

反訴原告が反訴被告に対して、免除の意思表示をなしたかどうかについては、証人の阿部正雄は、これまでも再三に渡り、口頭で遅延損害金を反訴被告に請求したと証言しており、確かに延滞賃料に関して反訴原告が昭和六三年に作成した書面には遅延損害金の事について触れられているものの、本件契約関係を清算し敷金を返還する際に、発生しているはずの遅延損害金について敷金から控除しておらず、この点は、反訴原告が遅延損害金を反訴被告との間で問題としてきたとする不自然で、右の証言によることはできず、反訴原告はこれまで反訴被告に遅延損害金を請求していなかつたと認定せざるを得ない。

反訴被告は、右を前提として、遅延損害金については、反訴原告から、反訴被告に対して黙示の意思表示による免除がなされたと主張している。しかしながら、本件においては、反訴被告はほとんど常習的に家賃滞納をなしており、一時期は、その額が金一三〇万円を越えた時期もあつたことが認められる。賃貸人がこのような賃借人に対して免除のような特典を与えることは、よほどの事情が存するのでなければ考えられないところ、このような事情の存することは全く伺われない。そうであるとすると、本件においては、反訴原告のこれまで遅延損害金について請求をしてこなかつたという態度は、この点について失念していたに過ぎないと考えるべきで、この点を捉えて免除の意思表示と評価することはできない。

3  よつて、反訴原告の請求は理由があるから、これを認容することとする。

三  以上のように、本訴について原告の請求を認容し、反訴について反訴原告の請求を認容することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 馬場純夫)

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